buddy

世間は夏休み突入したようですがみなさまはいかがお過ごしでしょうか?

バンコクにいた時は学校が休みになると都内にでるのがとても楽になったのを

強烈に覚えています。

 

私は私で割と夏休みを満喫しつつあります。

小沢健二のbuddyを口ずさみたくなりますね。

夏休み 夏休みという響きだけで心が軽くなりませんか。

働き始めてからというもの、ほんの10日間ほどの短い夏休みで

どうにか我慢していますが、本当はもっと2か月とか欲しい。

 

buddyといいますと、共にある、とかそんなイメージを私は持ってしまいます。

一緒。

そんな感じ。

確かに誰かと一緒にいると楽しいし嬉しい。

ツイッターとかね。

ただ、相手ありきが全てになってしまっては自分の生活の主体性が消えてしまう。

やはり私たちの生活というのは私たち自身の目や耳、体で感じるものです。

全てを私たち自身のフィルターを通してみるものです。

たとえ色眼鏡だとしても、自分の目線で見るということがとても大切だと思います。

 

たとえ不安にまみれていたとしても、自分でどうにかするしかありません。

たまに人も助けてくれますが、人が助けてくれるのも、助けるように仕向けた

私たちの行動に起因するものでしょう。

人の力や知恵を借りたとしても結局は人の力を借用しているだけで

自分でどうにかしているのではないでしょうか。

 

と、いうのも最近わたし、幸せとか考えちゃって。

トモフスキーは自分一人で生み出せる幸せも幸せだって。

昔の私も音楽聴いたりするのが幸せだって。

自分で完結する幸せに重きをおこうと努力をしていました。

ただいざ自分で文字を書こう、となるとまったくの反対で

弱いものは強きもの導かれたり、共にあったり、救ってもらったり、

といったことばかり注目してしまいます。

やはり人間というものは基本的に救いを求めるものだと思うので

そこに焦点をあてるということは受け取る方々に結果的には寄り添っているのかもしれません。

むしろ私はそれを狙ってはいるんですけれども。

あんまり一人で悩まないでほしいし、救いはあるというところをみなさんと共有したい。

 

そんなことは置いておいて。

もうちょっと自分の足で前へ進めるような世界であってもいいと思うんです。

せっかく足もあるわけだし。

人に導かれてばかりじゃつまらない。

やっぱり自分で動いてこそ、面白いと思います。

導く、というより、共にあるというか、共存するというか。

まさにbuddy。

 

全てを人に託すって、すっごくロマンチックだけど割とリスキー。

せっかく頭もあるし、手もあるし足もあるのだから

自分でできることは自分でした方がいいと思うんです。

野球部はマネージャーよりもプレーヤーの方が楽しいでしょ。

幸せなことに親の義務で学校にも通わせてもらえたんだから

多少の知恵もあるわけですし。

 

よりよい生活をするために日々を過ごしていると思うんです。

実感しないとしても前に進んでいると思うんです。

そうじゃないとしてもそう信じませんか。

そうでもないとやっていけませんか。

不幸になるために生きている人間なんていないと思うんです。

どんなに過酷な場面であってもより良い生活を求めて活動していると思うんです。

 

世界中で起きてるあれやこれも、よりよい方向に動けるように起きているんだと思います。

 

なんてね、最近の私の文章はだいぶましになったけどまだちょっと

ダメだな なんて。

 

幸せの形は人それぞれだし、一人で成しえる幸せ

みんなで成しえる幸せ、それぞれ大切なことだけど

一人で成しえる幸せにもうちょっと重きをおいてもいいのかもしれない。

結婚、とか彼氏彼女とか の存在に目がくらむ前に

自分のことを大切できるといいかもね。